
こんにちは。今日も元気にお過ごしでしょうか。
自己紹介の記事の中で触れましたが、今回は祖母の大腸ガンの治療で訪れた、メキシコの病院についてお届けします。
ピンクの外壁、眩しすぎるガラス張りの窓、病室から見えるリゾートな海。
昼も夜もビュッフェ形式で、フルーツ盛りだくさんの食べ放題。
そして、点滴棒をガラガラしながら街を練り歩く陽気な患者たち…。
どれをとっても、とてもじゃないですが『病院』とは思えない病院。
しかし医療機器は最新鋭。
ナースは親切&フレンドリー。
マルちゃんのカップ麺も売ってるスーパーは激安価格。
夜に出歩くと危ないよってことと、お酒を売っている店が鉄格子越しじゃないと物を売ってくれない怪しさにさえ目をつぶればOKです。
いっとき、治安の悪さがメキシコ2位だったティファナ。
その有名な街の郊外にある、ゲルソン療法の聖地・オアシス病院をご紹介します。
まずはそこへ至る経緯からどうぞ。
Contents
最初の大腸ガン、初めての手術
育ての親である祖母に、最初の大腸ガンが見つかったのは、私が専門学校に通っていた18歳の頃でした。
当時まだ子供に毛が生えたぐらいの学生さんで、事態の深刻さもそれほど理解できていませんでした。
私の実の母(つまり祖母の長女)と、母の妹(私から見たら叔母)があれこれ病院側と相談して、某・有名病院に転院して手術を受けることになります。
私にできたことといえば、学校の帰りにスクーターで病院にお見舞いに行き、洗濯物を持って帰ってくるぐい。
今思えばとても不甲斐ない限りです。
手術代が正確にいくらかかったのかは知りませんが、手術が終わった後に、担当医がうちの家族から封筒を受け取っていた現場は覚えています。
後日、叔母に尋ねたところ、10万円入っていたそうです。
と、まあ、よくある日本の医療現場の風景はさておき。
この時、医者の説明ではガンは取り尽くした…とのことでした。
銀色のお盆?に乗って見させられた、除去したガン細胞のグロさが忘れられません^^;
今思えばこの頃初めて気になり出したんですが…。
日本の病院の病室って、独特の匂いと暗さがありますね。
可哀想なイメージ…といういんでしょうか。
当たり前なんでしょうが、楽しさや明るさはどこにもありませんでした。
術後は良好に見えたものの…ガン再発
それからちょうど2年ぐらい経った頃。
祖母が「お腹が張る…」と言い始めました。
もともと便秘体質もあったので、本人も最初のうちはあまり気にしていなかったようです。
が、遂には食事をすると吐き戻すようになってしまいました。
さすがに様子がおかしいと、家族揃って病院に行ったところ、『腸閉塞』と診断されました。
この時点でガンかどうかはハッキリせず。
体力も落ちていたし、詳しく検査するためにも入院することに…。
そしてあっという間に再発したガン細胞が見つかりました。
そこは地元にある個人病院だったので、医者の勧めで大きな病院に転院することになったのですが。
最初のガンの時に手術した病院に問い合わせたところ、信じられないような言葉が返ってきましたよ。
曰く、
「ああ、再発ですか。じゃあまた切りましょう」
と…。
そんな簡単なもんなんですか⁉︎
「ガンは取り切ったと言ってましたよね?」
と尋ねても、
「再発する可能性はもちろんありますよ。とにかく切るしかないですね」
と、埒があきません。
こちらも無知でしたが、医者と患者&家族の温度差って半端ないんですね。
さすがにこの同じ病院で手術させる気にはなりませんでしたよ。
祖母本人も嫌がったので、他の病院を紹介してもらいました。
これまた大学病院です。
名前と場所が違うだけの「大学病院」
大学病院の雰囲気って、どこもあまり変わらないんですよね。
人で溢れていて、道に迷いやすく、駐車料金が高いw
都内某所の、2つ目の病院はそんな感じでした。
6人部屋の入り口近くに入院し、数日は点滴だけ受けていました。
もちろんその間も入院費は発生していましたが。
「いついつに検査します」とか、
「今こういうことをやっているので、これからこうする予定です」
などの説明は一切無し。
家族は(家族でも)点滴の中身も知らないし、担当の先生が誰になるかも知らされません。
これもまた『今にして思えば…』なことなんですが、これ、異常だと思います。

後に転院することになるオアシス病院では、全ての事柄を説目されました。
聞いてもわからないけど点滴の成分とか、注射の種類とか、その日のスケジュールとか…。
聞けば嫌な顔一つせずなんでも教えてくれましたし、聞かないでも全部説明されました。
病院に「任せる」日本のやり方とは、根本的に考え方が違うんですね。
さて、まだそこに至っていない日本の大学病院にて。
ついに詳しい精密検査が行われました。
たとえ手術しても、余命「半年」宣言…
再発したガンは、既にステージ3の後期〜4の頭でした。
腸閉塞を起こしたS状結腸がそもそもガンのカタマリだと…。
ん?
そこって、最初のガンができた所と同じ場所じゃない?
と、その時ふと思ったんですが、次にきた医者のセリフで、尋ねることも忘れました。
「切っても切らなくても、3ヶ月から半年ぐらいですね」
え?
なにが?
なんのはなし?
私も母も叔母も、呆然です。
そりゃそうですよね。
2年前に手術して、ガンは取り切ったって言われて、で再発したら『切っても切らなくても3ヶ月から半年』??
意味がわかりません。
「どうしますか? 手術の予約入れるならこのあと手続きしていってください」
当事者にとっては深刻でも、医者から受け取る感じはめっちゃ流れ作業的です。
この時点でまだ家族全員ボーッとしてます。
切っても切らなくても…
このセリフだけがずーっとぐるぐるしていて、まともに考えることもできません。
とにかく一旦話し合います。と伝え、その日は保留にしてもらいました。
ただ、『本人には伝えないでください』とお願いしたんですけどね。
その次の日に、その先生自身が、祖母に「ガンですね」って伝えるのを見たときは…ガッカリしました。
切らないで治す! きっかけは祖母への思い
いよいよここから始まります。
祖母の命を救ってくれる、何かを探す旅が!
と、いうのも、この主治医さんがしっかり祖母に「ガンですね」と伝えてくれちゃったおかげでですね、祖母が「手術するの嫌だ」と言い始めました。
主治医のおかげで秘密も隠し事もいっさいに無しになったわけで、祖母に根掘り葉掘り聞かれた訳です。
聞かれた内容としては、
- どの場所にできたガンなのか?
- なぜ再発したのか?
- 手術したらどれくらいの確率で治るのか?
そして、『今回手術しても、また再発するのか?』です。
答えられることも、答えられないこともありました。
母は「手術したら治るって! だから手術しよう!」と言っていましたが、たぶん私の顔が「それは嘘だ」と語ってしまっていたんだと思います。
私と祖母の同居期間の方が、母と祖母が一緒に暮らした時間より長いですからね。
母と祖母は元々ベッタリ仲がいいわけでもなかったので、まあ、付き合いの深さ的なもので感情を読み取られたんだと思います。
「お母さん、もう、切られるの嫌なのよ」
(私が祖母を「お母さん」と呼んでいたので、祖母の一人称はお母さんでした)
そりゃそうだと思います。
2年前に手術して、そのあとで体力がガタ落ちして、ようやく以前のように動き回れるようになったと思ったらまた手術の話…。
誰だって嫌です。
「……わかった! 切らなくても治す方法探してくる!」
そう、私が思い至ったのも、むしろ当然の流れだったと思います。
祖母に誓いをたて、とにかくまずは本屋へ向かいました。
ガンの知識、ガンとの闘い、ガン治療の種類…そして末期の症状。
知りたくない情報もたくさんありましたが、「ここで私が怯んでどうする。辛いのは私じゃなくて祖母本人だ!」と言い聞かせ、読み漁りました。
学校も休んで、病院に行く以外は全部本を読み、仮眠を取ってまた読み漁る…を繰り返します。
今のようにネットがこれほどのスピードで普及していなかったため、ググることもできません。(ダイアルアップ回線でしたね)
気になる情報を見つけては電話をし、もしくはファックスを入れて折り返しの連絡を待ちました。
そんなことを続けているうち、ゲルソン療法の本と出会ったのです。
魔法のようにガンが消える? そんな訳あるか!
読んだ当初の感想は、猜疑心でいっぱいでした。
「痛みもなく、ガンが消えた」
「もう化学療法には頼らない!」
「末期から完治した生存者の声」
こんな見出しが並ぶ本です。
怪しさしかなかったですね。
ただ、こちらもガン当事者の家族。
藁にもすがりたい気持ちは一緒です。
とりあえず読むだけ読むか…と、全てを読みきり、そして、『ゲルソン療法』について更に追いかけ始めました。
ざっくりと、ゲルソン療法について説明します。
マックス・ゲルソン医学博士が開発した食事療法のこと。
人間が本来持っている免疫力を高め、ガン細胞を自身の体の中から攻撃して撃退することを目的とする。
健康な体であればガン細胞は見分けられ、自身の良好な細胞が攻撃し、やっつけてくれる。
それができなくなっている身体を浄化し、本来持つべき攻撃力を取り戻す。
そのための食事療法は、ナトリウムを排除し、カリウムを摂取する。
無塩食・カリウムを摂るためのにんじんジュースが軸となる。
また、ストレスによって細胞が劣化するので、程よく日光浴をし、身体を動かし、悩みを溜め込まないこと。
野菜が中心ではあるが、肉も味付けをに気をつけて摂るべし。
身体の中をデトックスする目的で、治療中は定期的にコーヒー浣腸を行う。
完治後も予防の目的にために、頻度を減らして行う。
上記は、私自身がオアシス病院で医師や看護師や栄養士から教わったことです。
オアシス病院は食事療法だけでなく、化学療法や投薬も必要とあらば取り入れています。
私が調べた当時(1998年)、ゲルソン療法を施している施設は国内にはありませんでした。
ゲルソン療法から派生した<○○式>などの情報はありましたが、いずれも自宅でゲルソン療法を行うための手助け…という感じのクリニックで、病院ではありませんでした。
メキシコのオアシス病院の他に、ドイツにもゲルソン療法の病院を見つけましたが、そこは治療を目的とした病院ではなく、ターミナル患者のためのホスピスでした。
勝手なイメージで「メキシコよりドイツの方が安全そう…」と思っていたので、ドイツにあればそっちの方がいい、と思ったんです^^;
ウェブサイトもなかったので電話したところ、『治療ではなく、痛みを和らげている。お祈りをしている』と説明されました。
この時点でまだ<祈る>段階ではなかったので、仕方なく(失礼!)メキシコのオアシス病院に希望を託します。
連絡は主にファックスと電話! おかげで英語力が爆上がり!
この時点で、私の中ではもうメキシコに行くことが確定していました。
他のガン治療法などもたくさん調べた上での決断(独断)です。
ゲルソン療法を知った当初こそ、胡散臭くて信用できませんでしたが、調べれば調べるほど、ガンの治療法として理にかなっている、と感じたんですね。
『若干ハタチの小娘が何言ってやがる』ってなもんですが、不惑の四十を迎えた今でも、この決断は間違っていなかったと確信しています。
さて、とにかくまずは現地の病院に連絡を取り、現状を伝えなくてはなりません。
GmailもSNSも無かった時代。
連絡の手段は電話が主です。
しかしメキシコとの時差は14時間。昼夜逆転ですね。
しかもこの時の私の英語力は中学生レベル。
身振り手振りもできない電話より、じっくり読めるファックスを選びました。
どうしても急いで尋ねたいことだけ、夜中〜明け方にかけて電話しました。
毎日毎日大変なやり取りで、ファックス用紙もどんどん無くなりました。
医学用語なんて日本語でも難しいのに、それを英語で説明しなきゃいけない大変さ。
しかしこの一連のやり取りのおかげで、私の貧しかった英語力がどんどん向上しましたね!
文字通り命がけですから、そりゃ脳みそもフル回転で知識を吸収する訳です。
腸閉塞を起こしていることを伝えたところ、できるだけ急いだ方がいいと言われました。
(腸閉塞は英語で『Obstruction of the intestine』または『Intestinal obstruction』)
ゲルソン療法は食事療法が主ですから、腸閉塞で食べ物が通らないと治療ができません。
閉塞部分だけ切除し、それから食事療法に入るという説明を受けました。
もしできるなら日本で腸閉塞だけカットし、それからオアシス病院で治療を受けた方がいいとも言われました。
しかしここで問題になったのが、メキシコまでの距離と、祖母の体力。
この時点ですでに約3週間ぐらい入院していました。
『入院している間、歩いているか? 体力づくりをしているか?』と聞かれたのですが、普通、日本の病院は手術前の患者に積極的に歩け…とは言わないですよね。
祖母も例外にもれず、ほぼ寝たきりの入院生活を送っていたため、体力はガタ落ちいていました。
もし日本で腸閉塞の手術をしたら、おそらくメキシコまでの飛行機での移動は厳しいだろうと…。
そこで、現状のままオアシス病院に転院し、現地で腸閉塞を切除し、その後に食事療法に移行するプランを取りました。
病院のコーディネーター(秘書のような存在で、手続き関係や医師との連絡を取り次いでくれます)を通して、治療プランや話し合いはまとまりました。
さあいよいよ祖母へのプレゼンテーションです!
日本の病院の体質を垣間見た事件
調べ尽くした資料と、ゲルソン療法についてのまとめノート、現地の医師とのやり取りファックスと、それらの日本語訳。
ついでに日本でゲルソン療法をやった患者さんの体験記なども持ち込み、祖母と家族に大説明会を行いました。
予想通り、母からは大反対を食らいましたね。
『お母さんを殺す気か!』
そう罵られましたが、それこを想定の範囲内だったので驚きはしませんでした。
むしろ驚いたのは祖母の反応。
「お前がそこまで言うなら信じるわ。お母さんの命、預けるね」
あっさりと、本当にあっさりとメキシコ行きを決意したんです。
そんな祖母を見て、悩んでいた叔母も決意したようです。
私に同意はできなくても、祖母(叔母から見たら実の母)の意見は尊重したい。そんな気持ちだったそうです。
家族一丸となって…とはいきませんでしたが、母の反対意見を押し切り、メキシコでガンを治そう作戦が始まりました。
しかしここで、思っても見なかったことが起きます。
日本の病院から大反発を食らったんです。
率直に見て、医師は呆れていました。
『どうせそんなことやっても助からないだろ』的な感情がばりばりに透けて見えましたね。
そうですか、頑張ってください。
そんな言葉と共に、あっさりと転院を承諾されましたよ。
むしろ反発してきたのは病院そのもの。
転院するため、カルテとレントゲン写真を渡してほしいと申し出ました。
それが癪に触ったのか、
「裁判でも起こす気ですか!? それならそれでこちらも黙ってませんよ!」
と…。
オアシス病院から、カルテの開示請求は患者の当然の権利だと言われていました。
レントゲン写真についても、患者がお金を払っている以上、所有権は患者に属すると。
だからまさか病院側がこんな反応してくるとは思ってもみず、むしろ「え、なんかやましいことでもあるの?」と勘ぐってしまったほどです。
ちなみに最初のガンの手術をした病院にも連絡しましたが、やはりこちらも開示請求に応じてくれず、どうしてもと言うなら弁護士を通して正式に書類を作ってくれと言われました。
はあ〜びっくりです。
びっくりしていてもガンは治らないので、とにかく根気強く『お願い』をし、入院している病院からはカルテとレントゲン写真はもらえました。
最後の方は、ほぼ喧嘩腰に叩きつけられた感じですけど。
裁判を起こさないって誓約書も書いてほしい的なことも言われましたね。書きませんでしたけど。
思わぬ伏兵、航空会社!
紆余曲折ありましたが、無事に退院が決まりました。
私と祖母と、従兄弟のような存在の幼馴染のKちゃんが、通訳として一緒にきてくれることになりました。
(帰国子女なので息するように英語を喋ります)
そうそう、パスポートの取得についてですが、本人が出頭できない事情を説明して、家族が代理申請という形で取得できましたよ。
香港への家族旅行以外で海外に行った経験のない祖母を思い、JALなら安心だろう…と、少々割高ですが、日本語の通じる日本航空を選びました。
病院からダイレクトに空港へ行けるよう、車椅子から乗り込みやすいタイプのタクシーも手配完了です。
平日の昼間、東京都心から千葉・成田まで。
久しぶりの外出に、祖母も嬉しそうにしていました。
そしていよいよ空港到着。
ここまできたらあとはメキシコに飛ぶだけです!
しかしその<飛ぶだけ>の部分でまた思わぬ事件が勃発しました。

航空会社が、乗せてくれないって言い出したんです。
この時の祖母の状況を説明します。
入院生活をほぼ1ヶ月続けていたため、自力では歩けないほど弱っていました。
トイレに行きたいと言っても、ベッドから動かないよう言われていました。
当時の年齢は確か72〜73歳でした。
腸閉塞を起こしていたため、イレウス管という細いチューブを鼻から入れて、排泄物をそこから吸い上げ外の容器に出していました。
鎖骨の下辺りを切開し、そこにカテーテルを作り、点滴を行っていました。
問題となったのはこの<カテーテル>。
これが、各航空会社が祖母を乗せたがらなかった理由です。
何かあった時に責任を持てない。
医者が同行するなら良いが、個人ではお断りしている。
このような理由で断られました。
しかも当日ですよ⁉︎
散々押し問答しましたが、何をどうお願いしても乗せてはくれず、搭乗予定だった飛行機は目の前で虚しく離陸してしまいました…。
飛行機に乗れない…つまりメキシコに行けない。
かと言って病院にも戻れないし…どうしたらいいのか…?
途方に暮れた時こそ、人の温かさが身に沁みる
そんな私たちを見るに見かけて、声をかけてくれた方がいました。
ユナイテッド航空のTさん。
その節は大変お世話になりました。
なんと、飛行機に乗せてくれるよう、滑走路まで出向いてパイロットに掛け合ってくれたんです!
もう感謝しかありません!
ユナイテッドは第1ターミナルだったので移動しなくてはいけませんでしたが、その移動もバスと車椅子を手配してくれました。
JALに知り合いがいるから…と、航空券の払い戻しや再購入もやってくださり、何から何まで手を回してくれました。
当日含め、直接お会いしたことはありません。
おそらくそのJALのお友達の方が、ユナイテッドのTさんに話を持ちかけてくれたんじゃないかと思います。
電話口で色々お話しさせて頂き、感謝を伝えまくりました。
「とにかくお大事に、お気をつけていってきてくださいね」と、励ましの言葉をいただき、泣きそうでした。
無事に搭乗できた機内では、トイレに近い場所に案内して貰え、カテーテルもベルトで上から吊るせるように工夫してくれました。
メキシコまで治療に出向くこと、腸閉塞を起こしていることを伝えると、通常食ではなく、野菜やフルーツのジュースを頂けました。
乗り換えのための寄ったロサンゼルスの空港では、飛行機の入り口まで車椅子を寄せてくれて、通路すら歩かなくて済むよう、職員のお兄さんがずっと祖母の車椅子を押してくれました。
サンディエゴの空港でもそうです。
アメリカ社会の車椅子の普及率の問題なのかもしれませんが、車椅子を使うことが別に珍しくも何ともないようです。
ただし、このサンディエゴの空港で4時間以上待ちぼうけを食らいましたが…。
というのも、当初乗る予定だったJALに私たちは乗れなかった訳で。
つまり、乗り継ぎの便も当初乗る予定でなかった便です。
しかもこの<当初の>便はそれぞれ3時間以上前に到着しています。
サンディエゴの空港まで迎えにきてくれていたドライバーさんは、てっきりもう私たちが来ないものだと思い、病院まで引き返してしまっていたんですね。
到着してドライバーさんがいないことを知って、慌てて我々も病院に連絡をとります。
タクシーで向かうこともできたんですが、アメリカからメキシコの国境を超えるため、タクシーの料金もかさみますし、何より病院側が、日本人を乗せた一般タクシーでこの時間(夕方〜夜)に国境を超えるのは良くない…と心配していました。
そんな訳で、いったん引き返してしまったドライバーさんが再び空港に呼び寄せたんですが…。
…ここでまたトラブルです。
アメリカ→メキシコ。この国境またぎはなんてことありません。
逆の、メキシコ→アメリカ。このアメリカ入国がもの凄い厳しいんです!
後日私自身も体験しましたが、日本のパスポートを持っていてもトランクの中まで調べられます。
目の前でバスが止められて、中にいた人たちの半数以上が連行されるのも目撃しました…。
そんな厳しい国境線を、1日に2回横断しようとしているバスドラーバーさん。
そうとう疑われて、色々調べたり聞かれたりしたそうです^^;
確かにサンディエゴの空港で待っている間は不安でいっぱいでした。
病院からは「車がそちらに向かっている」と言われましたが、もし来なかったらどうしよう…と。
私が説得して連れ出した訳ですから、全ての責任は私にあります。
危険を承知でタクシーで病院に向かうか、最悪の場合、サンディエゴの病院に緊急入院できないもんかと考えたりました。
あの時、この手にスマホがあったらもう少し色々調べられたのに…と、今の時代を羨むばかりです^^;
その後、時間はかかりましたがドライバーさんは来てくれました。
話してみたらとても良い方で、ご家族との食事の時間に間に合わなくなっても、愚痴一つ言わず、丁寧に運転してくださいました。
ロベルトさんには、この後何年もお世話なることになります。
遂に、ついに到着! オアシス・オブ・ホープ病院!
…ここにたどり着くまで、本当に長かったです。
まだ治療も始まっていませんが、とにかく、到着してホッとして、力が抜けました。
正確な時間は覚えていないのですが、病院に到着したのはおそらく夜の9時を回っていたのだとだと思います。もしかして10時近くかな。
レセプションも閉まっていましたし、食堂も、薬局も、営業時間はとっくに終わっていました。

しかしドクター達はエントランスで迎えてくれました。
その看護婦長のマリア・ルイーザや、コーディネータのアナも、遅い時間にも関わらず待っていてくれました。
そのドクター達の中に、主治医になるドクター・セセーニャと、コントレラス博士(当時はまだジュニア)もいました。
日本から持ち込んだカルテとレントゲン写真を渡します。
疲れただろうから、本人へのヒアリングや治療方針の説明は明日にしようと、その間にレントゲン写真を見ておくね。と言って、笑顔で長旅を労ってくれました。
その時は夜で、疲れ果てていたのもあり、じっくり院内を見る余裕はなかったのですが…
じっくり見なくても、そこが日本人の常識からはかけ離れた、一風変わったどころか『リゾとホテル』のような雰囲気なのはひしひしと感じましたよ。
なんてったってまず外壁も内壁もピンクですからね。
冒頭にも書きましたが、窓ガラスはギラギラの反射系でマジックミラーのような仕立て(何故かというと日差しが強すぎるから)。
エントランスには世界各国の時刻を示した時計が並び、
これは朝になってから気付きましたが、天窓があって、お日様もさんさんです。
私たちが通された部屋は、祖母の大腸ガンのステージが3〜4なことと、腸閉塞を起こしていることで、部屋ナースステーションのすぐ隣でした。

これがさすがの医療設備。
患者用のベッドは日本のものよりだいぶ大きく、横幅も1.3倍ぐらいありました。
天井からは酸素機器がぶら下がり、ベッドの頭側の壁は、なんだかよくわからないスイッチや機械がズラーっと並んでいます。
点滴は天井のレールごとに違う配置のようでした。
床にも何かが埋め込まれていました。
コンパニオンといって、付き添いの人が1人だけ同室に残ることになります。
この付き添いの人の食事代などは無料で、まあ、しっかり入院費に含まれているということですね。
一緒に行ってくれたKちゃんは、病院の近くのモーテルに送ってもらい、そちらから通ってもらうことになります。
とにかく皆んな疲れていて、でもホッとして、その日は食堂からフルーツを貰い、早々に就寝しました。
「お母さん、ここでなら病気が治る気がする」
祖母の言ったひとことです。
この言葉に集約されていると思いました。
そう、なんか、ポジティブになれる病院なんです。
いよいよ本格的に治療開始! 〜からの、フルーツの美味しさに感動!
次の日、レセプションで入院手続きを行いました。
確か…小切手だったか、渡航する前に銀行で小為替みたいなものを作ってもらったような記憶があるんですが、正確に覚えていません。
とにかく、手付金的なもので80万円ぐらい払った気がします。
最終的に、帰国する前に病院へ支払った合計金額は200万近かったと思います。
ええ、高額です。
金で命が買えるなら…とは思いますが、<地獄の沙汰も金次第>なんだな…と思いました。
この病院は日本の保険が一切効きません。
今もそうかはわかりませんが、この時は保険は助けてくれませんでした。
さてさて、まずは現状の確認から。
レントゲンが1ヶ月前のものだったことや、MRIの資料がなかったため、初手は検査室から始まりました。
ちょうど患者数が少ない時期だったらしく、待ち時間もなく、あっという間にすぐ終わりましたけどね。
ランチには早い時間だったため、コーディネーターのアナが院内を案内してくれました。
当時は、おそらく今より施設は狭かったんだと思います。
最近のホームページを見ると、当時はなかったホテルのような建物ができていました。
それでもその時ですら敷地はまあまあ広く、最初のうちは迷子になりそうでした。
レセプションのすぐ上の階が私と祖母の部屋だったんですが、ナースステーションを主に、エントランスを含むメインエリアが、重病患者の部屋だったようです。
斜面に建っている病院のため、1階だと思っていたレセプションが実は2階でした。
1階にはレントゲン室や手術室がありました。
比較的軽度な患者さんは、敷地内部の、それこそホテルのような趣のエリアに入院していました。
(この2年後にまたここを訪れるんですが、その際は検査が主のゲスト扱いで、こちらの<ホテルエリア>に滞在しました)
館内あちこちしているうちにお腹が空いてきます。
レセプションのすぐ近くにある食堂に向かいました。
このメインダイニングで3食摂れるんですが、別に部屋に持ち帰って食べても構いません。
食べ放題です。
アメリカ人とオーストラリア人のおじちゃん&おばちゃん達は、ランチトレーを持って外のテラスでよく食べていました。
点滴棒さえなければ、リゾート地を訪れたただの観光客にしか見えません。

食事内容ですが、これは流石に一般食とはいきません。
なんてったってゲルソン療法ですからね。
味付けの濃いステーキ肉はありませんよ。
主食として並んでいるのは、ジャガイモを中心に主に野菜です。
それと、色とりどりのフルーツの山!
これがものすごく美味しいんです!
もともと私も祖母も果物が大好きなので、この食事内容にはテンションだだ上がりでした!
しかも食べ放題ですからね♪
さらに味付けの薄い鶏肉料理もありますが、こちらは症状の軽めの方と、付き添いのコンパニオンへの料理のようです。
最初の3日ぐらいは流石に薄味過ぎてメイン料理はちょっと…だったんですが、不思議ですね。慣れます。
まあ、実は日中抜け出して、近くのモールのレストラン行ってましたけど^^;
祖母は厳格な指導のもと、ゲルソン療法の食事を続けていました。
腸閉塞の切除を経て、免疫療法の真価発揮!
さあここからジェットコースターです!
食事療法を続けて約3週間。
祖母の顔色はすっかりよくなりました。
というか少し日に焼けて健康的になりました。ガン患者ですが^^;
なんと体重も増えて、食欲も増しました。
私はこの病院の近くで友達ができ、そいつがお見舞いにきてくれたり、祖母の車椅子を押して近くを散策してくれたり、夜は飲みに行ったり…。
(マブダチとなったアンジェロの話はまたいずれ…)
日本の病院にいた時の祖母は、ベッドに繋がれ、トイレに行くことも許されず、少しボケが入ってしまったのか、家にいるはずのペットの猫が病室に遊びにきていると言ってみたり…。
入院してからどんどん不健康になっていきました。
しかしメキシコきてからは生き生きとして、窓から入るたっぷりの陽を浴びながらニコニコしています。
おそらく体内で免疫力が上がってきたのでしょう。
担当医から、ついに腸閉塞を切除する時が来たと告げられました。
やはり食事療法の結果をもっと出すには、食事の摂取から排泄まで、すべての体内器官に栄養が行き届く必要があると説明されました。
(だから肺ガンは食事療法では難しい…とも言っていました)
ただし手術だけでは全てのガンは取りきれないだろうとも言われました。
この時すでにステージは4。
S字結腸の部分だけでなく、おそらく他にも転移している可能性を言われたんです。
これは入院前から言われていましたが、だからこそ腸閉塞の部分を切除し、食べ物の通り道を作ってやってから、食事療法を続けていくやり方です。
その手術をするための体力を、祖母はメキシコに来てから手に入れたのです。
ここからは、今思い出しても目まぐるしく過ぎました。
文字通りあっという間でした。
腸閉塞を切除した祖母。
1週間はまともな食事はできないだろうと言われていましたが、3日目にはカップヌードルを食べてました。
本当はダメですよ。
本人がどうしても…というので、主治医のドクター・セセーニャが見ないふりをしてくれたんです^^;
その次の日には歩いてランチを食べに行きました。
同じ日の夕方には散歩もしました。
ダイニングでアメリカ人のおじいちゃんにナンパされたり、英語もスペイン語もはわからないはずなのに、看護婦のマリア・ルイーザと楽しそうに談笑していました。日本語で。
祖母曰く、
「アメリカ人の血を分けてもらったから、お母さん半分アメリカ人になったのよ」
だそうです。
手術の際の輸血のことですね。
みるみる元気になっていく祖母を見て、心の底から嬉しかったです!

退院、そして帰国。ニンジンジュースの日々の始まり。
主治医のドクター・セセーニャとコントレラス博士から、祖母に担任の許可が出たのは手術してから2週間後ぐらいだったと思います。
腫瘍マーカーだけではわからないので、血液検査をしたり、レントゲンを取り直したり…。
退院するときに、ガン細胞全てが無くなっていた訳ではありません。
帰国しても食事療法を続けること。1年〜1年半後にまた検査に来ること。
病は自分で治すものだという、自覚を持つこと…。
これらを約束して、帰路につきました。
…帰り道にサンディエゴでちょっとご褒美に買い物したり、ラ・ホヤまで観光しに行ったりしましたけどね^^;
退院するときは皆んなで見送ってくれて、祖母も私も感動で泣いてしまいました。
そしてスーツケースいっぱいに、指示書や栄養補助のビタミン剤を詰め込みました。
(税関で説明するのが大変でしたが)
来た時と同じロベルトさんのシャトルバスに乗りながら、赤茶色の海を眺め「帰りたくない」と思ったことを覚えています。

いつか自分がガンになったらここに来よう! と強く思いました。
ガンにならないことが一番なんですけどね^^;
大変だったけど、楽しい思い出もたくさん抱えて、日本に帰国しました。
帰国してすぐに、ゲルソン療法の主である『ニンジンジュース』を作るためのジューサーも購入しました。
このジュースは、今でいうコールドプレスジュースですね。
野菜や果物をミキサーにかけると、繊維が壊れ、大切な栄養素も破壊されてしまうため、ゆっくりと圧力をかけ、絞り汁だけを新鮮なうちに飲む方法です。
素材はニンジン・りんご・レモンです。
私は、ニンジン中2本、りんご1個、レモン1個で作ってました。
ゲルソン療法では、このジュースを1日3回…どころか、2時間おきに大量に飲まなくてなりません。
やり始めて最初のうちはまず間違いなくお腹を壊します。
ガンの進行度合いにもよりますが、祖母の場合、日本に帰っても1日3回/1回400ccは飲むように言われました。
これでも病院にいた時よりは量が少なくなりましたよ。
しかもこのジュースは作り置きができません。
作ってすぐに栄養素が壊れ始めてしまうので、飲むたびに作らなくてはいけないんです。
これが結構大変です。
常に大量のニンジンやりんごをストックしておかなくてはなりません。
ジュースの量もかなり飲みますので、それだけでお腹いっぱいになってしまうこともあります。
しかし、それでも、病院のベッドに繋がれているより全然マシだと思いました。
『余命半年』の半年を超えて、授かりものの5年半…。
帰国して、方々に奇跡の復活を報告して、体力もどんどんも付いて…。
それから約5年半。
私は祖母と一緒に、色々な国に旅しました。
この、授かりものの時間がなかったら、できなかったことがたくさんあったでしょう。
2人で雨のパリで焼き栗を食べたり、ウィーンの列車でスリにあったり、ベネチアで大げんかをしたり、歩きにくいプラハの石畳にケチをつけてみたり…。
また祖母は方々でよくモテまして、ニューヨークではお金持ち風のおじいさまから結構なアピールをされていましたよ。
小さくてよく笑う日本人のおばあちゃんは大人気のようです。
元々旅好きの人でしたが、人生の最後の最後で海外旅行の楽しさに目覚めたもよう(私のせいが60%ぐらいですね)。
貯蓄も年金も使い果たして、資産なんて何も残さず、新たな世界に旅立ちました。
最期もやはりメキシコで迎えました。
やはり最初に手術した箇所の癒着がどうしてもネックになり、そこがガンの温床になってしまったようです。
最後にメキシコに行く時も、「どうせ死ぬならメキシコで死ぬ」と言っていました。
祖母が亡くなったとき、私は25歳。
人生100年として、4分の1です。
この時点で、怖いものが無くなりました。
『いつか死んでしまうかもしれない』と怯えていた大切な人が旅立ってしまったので、あとはもう、「頑張るから見ててね」と、残りの人生、祖母に誇れるように過ごせばいいだけですから。
このあと何年もして、結婚したり新しい家族ができたりして、大切なものも増えました。
できれば家族皆んな、健康で長生きしたいので、今でもニンジンジュースは続けています。
(ジューサー本体も、安価なものが市場に出回るようになったので助かっています)
たまにオアシス病院のホームページを覗いて、お世話になった先生たちが歳を重ねた姿を見て、当時を懐かしんだりしています。
病は自分で治すもの。
病気にならない身体を自分で作る。
心がけてはいますが、気も緩みます。
この記事を書いたことにより、私自身も初心を思い出し、今一度身を引き締めようと思いました。
この情報が、誰かの役に立つことを願います。
ご拝読ありがとうございました!
ティファナはメキシコだけどUSドルが使える!
オアシス病院はメキシコにありますが、病院やその周辺のお店、スーパーマーケットを含め、アメリカのドルが使えます。
国境からすぐだからですかねー。とても便利でした。
(おつりがメキシコ・ペソで返ってくるくることがありましたがw)
ちなみにオアシス病院のあるティファナは、国境ゲートをくぐったすぐのところにある<ティファナ>ではなく、郊外の方です。
プラヤス・デ・ティファナという、海沿いの街です。
ティファナ市内の中心地から、車で20〜30分ぐらいかかりますかね。
新宿から見た錦糸町…ぐらいな体感距離でした。
病院の窓からはアメリカ・サンディエゴの海軍基地が見えます。
映画『トップガン』の舞台になった基地です。
さらに歩いていける距離にデカいスタジアムがありまして、入院中にリアーナのコンサートがあって、すごい人だかりでした…。
今は当時よりさらに治安が良くなった様子。
病気の治療だけではなく、観光としてまた訪れたい街です♪